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2007年1月31日 (水)

5文型のO(目的語)とC(補語)も『並べると説明』

「英語は、主語の後ろに動詞が来る言語です」

これを真面目に声を大にして言うと「当たり前だ!」と怒られてしまいますよね(笑)
人によっては、「主語の後に助動詞が来ることもあるし、命令形や倒置もある」と突っ込んでくるでしょうけど、
少なくとも英語の基本形ではそのように言えます。
学校で、いわゆる五文型を習っているでしょうから、英語を習得しようとしている人にとっては常識ですよね。
(実は、私は五文型をまともに教えてもらった記憶がないのですけど)

では、このように質問するとどうでしょう?

「英語では、何故、主語の後ろに動詞が来るのですか?」

いったい、どれくらいの人がこの理由を説明を出来るのでしょう?
「英語はそういうものだから…」というのが普通の人達の反応ではないでしょうか?
私も過去いろいろな教材を手にしましたが、この理由がきちんと説明されたものに出会ったことが無かったです。
『ハートで感じる英文法』に出会う前までは。

その理由として、少々本質的な部分に遡って述べられているのが、『並べると説明』だったのです。

繰り返しになってしまいますが、一昨日に書いたポイントをもう一度確認しておきましょう。
----------------------------------
●『並べると説明』:二つの要素が並ぶと、後ろは前を説明する。
●主語と述語の関係も、『並べると説明』
 “He lives in London.” = “He” + “lives in London.”
 後ろの述語が、前の主語を説明している。
●『並べると説明』は、英語を使って意思を伝えるために、かなり広いダイナミックレンジで相似則が成り立っている原則。
----------------------------------

これらのことから言えるのは、
『英語は、最初にザックリと言いたいことの骨格を言ってしまい、その後で足りないことを説明していく言語』
だということでした。

この構造に従うと、「何がどうしたのか?」「何がどうなのか?」を言うための骨格になる部分を最初に言うことになる。
だから、主語の後に、言いたいことの骨格になる動詞が来ることになります。

『ハートで感じる英文法』を読んで知った内容がここまででしたら、
「なるほど」とは思っても感動はしなかったかもしれません。

この続きがあります。

個々の文だけでなく、パラグラフの構造も「最初にザックリと言いたいことを言って、その後で説明するようになっている」ことから、
広い範囲で相似則が成り立っていると言えそうなのでした。
大きななカタマリにする方で、相似則が成り立っているのでしたら、では、小さなカタマリの方では?…

主語と述語の部分で区切れるわけですから、
述部の中でも、その相似則、つまり『並べると説明』の関係が成り立っているのではないか…?
そう考えるのが普通ですよね?
(普通じゃない?(笑))

5文型の説明では、いつも次のように表記されます。
---------------
・第1文型: SV
・第2文型: SVC
・第3文型: SVO
・第4文型: SVOO
・第5文型: SVOC
---------------
主語と述語に分けて考えられるのですから、この際、邪魔な(?)主語は控え室に入っていただいて、述語のみを見てみます。
そうすると…
---------------
・第1文型: V
・第2文型: V ← C
・第3文型: V ← O
・第4文型: V ← O+O
・第5文型: V ← O+C
---------------
…ですよね?

述部でもきちんと、『並べると説明』です。
動詞でザックリと言った後、その動詞を説明する関係になっています。

動詞を単体で主語の後にポンと置いただけでは、伝えたい内容は伝えられません。
動詞で伝えようとする状況、状態、対象等を説明する言葉が必要になってきます。
それを説明する単語が目的語、補語として、後ろ側から前の動詞を説明している関係になっているのです。

これも「当たり前!」かもしれないですね(笑)
「そんなことが分かっても何の得にもならないんじゃない?」って?

そうなのでしょうか…?
ごめんなさいね。ここまでの内容でさえ、私にとっては「当たり前のこと」ではなかったのです。
これは英文を作るときの“感覚”に影響してくるのです。

いわゆる“動詞”とは、動作・行為の概念・意味内容を切り取ったもの(シニフィエ)を表記したもの(シニフィアン)でした。
『単語(シーニュ)は、概念・意味内容(シニフィエ)と表音(シニフィアン)が組み合わさったもの』と捉えると、
その次元では動詞も名詞も同じように捉えられるのではないか、と以前にこのブログで書いたことがあります。

そうすると…「前の要素(単語)を後ろの要素(単語)が説明している」すなわち『並べると説明』という次元において、
“主語と述語”、そして述部での“動詞と補語・目的語”との関係は、同じ感覚で捉えられるようになるのです。

この『同じ感覚で捉えられること』がとても重要だと思うのです。
私は、日本人が日本語を感覚的に話せるように、英語を感覚的に話せるようになりたいと思っています。
そのためには、「どのように捉えると感覚的に話しやすくなるのか?」「感覚的にどのように捉えると習得しやすくなるのか?」それらを意識しながら学んでいくべきだと思うのです。
私の今までの英語学習には、その視点が欠けていました。

もちろん、ここまでだけですと、あまりにも“ラフな感覚”過ぎるのは確かです。
上記5文型のような英語を読み書きするとき、“感覚的にできるようにする”ためには、もう一つ視点が加わります。
それが昨日お話させていただいた『穴は埋めろ』なのですが、ここまでに既にかなり書いてしまい時間が無くなってしまいました。

不完全燃焼ですが、今日はここまでです。

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2007年1月30日 (火)

『穴は埋めろ』は、WH疑問文・関係詞だけじゃない

昨日は、『並べると説明』が私にとって“コペルニクス的展開”をもたらしたことを書きましたが、どのような内容かは書いていなかったですね。
今日はそれを書こうと思っていましたが、その前にもうひとつ、触れておかなければならないことがあるのに気が付きました。

それは、『並べると説明』と同じく、『ハートで感じる英文法(会話編)』の『英文法の歩き方』に書かれている四番目の原則『穴は埋めろ』です。

これはどのような原則か、ひとことで言うと、“情報の空いた部分を意識し、補う感覚で英文を理解したり作ったりすること”らしいです。

空いている部分を自然に補おうとする、補いたくなるのは人間共通の特性であって、英語(英文法)にもその感覚がある。
だから、空いている部分意識しながら読み書きすると少々わかりにくい文でもこの感覚を身につけていれば間違えずに理解できるらしいです。
例えば、

a. Who do you think hate Jim deeply?
 (ジムのことをひどく憎んでいるのは誰だと思う?)
b. Who do you think Jim hate deeply?
 (ジムがひどく憎んでいるのは誰だと思う?)

変な例でごめんなさい!
この二つをパッと聞くと、混乱してしまいそうですけど、後ろ側の空いている部分を把握することで、これも間違えずに理解できるようになります。
つまり、
a. 〔  〕 hate Jim deeply
b. Jim hate 〔  〕 deeply
この〔  〕で空いている部分(穴)を聞いていることが理解できれば問題なしというわけです。

学校で習ったときは、「元の文章を考えて、それを変形したのがこのカタチだから…」などと考えていましたが、会話ではそんなことを考えている暇は当然ありません。
読み書きしているときにできるようになる必要があるのですよね。

このあたりは学校での書き換え練習でもやったことがあるので、そりゃそうだよね!という感じですか?(笑)

大西先生は凄いなぁ~と思うのは、WH疑問文や関係代名詞だけでなく、to不定詞を使う感覚にも当てはまると解説されていることです。
I'm happy to hear your voice.
“I'm happy”だけでは、何が嬉しいのか分からないし言い足りない。そこで、“to hear your voice”と繋げています。
言い足りない情報(“穴”)を、to不定詞で文に繋げていくことで、言いたいことを“埋めていく”。
だから、to不定詞も『穴は埋めろ』の感覚だそうです。

ここまで聞くとピンときませんか?

疑問文ではないフツーの文でも『穴は埋めろ』の感覚があるのです。
…ということは…to不定詞に限らず、フツーの文の他の部分にも『穴は埋めろ』の感覚があるかもしれない…いや、あるのです(笑)
私の捉え方は、また偏っているかもしれませんけど、大西先生が言及されていない部分にもあるのだと考えています。

今日は仕事でとても疲れましたので、このあたりまでにしておきます。
では…『並べると説明』と『穴は埋めろ』がどのように繋がっていくのか、整理の続きはまた明日…

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2007年1月29日 (月)

英語の幅広いダイナミックレンジで適用される『並べると説明』

『ハートで感じる英文法(会話編)』の巻末には、『◆おまけ 英文法の歩き方』と題して、英語の大原則が僅か10ページに要約されて書かれています。
「何故これがおまけなの?」と思ってしまうぐらい本質的で根幹をなすものばかりが五項目に分けて書かれているのです。
確か、本屋さんで大西先生の他の著書を立ち読みしたときに、それらの項目を軸に書かれている本が1冊あったかと思います。
それをP10で分かりやすく書かれているのも、これまた凄い話です。

その中でも、英語未習熟者の私にコペルニクス的展開を与えてくれたのは、
その一番最初に書かれているもの…
----------------------------------
『並べると説明』
二つの要素が並ぶと、後ろは前を説明する

----------------------------------
という原則です。
もちろん、これは単語だけでなく、句や節のカタマリでも通じる原則となっているとのこと。

大西先生の説明では、昨日書きました同格はもとより、第五文型(SVOC)の補語の置き方、that 節、分詞構文、現在分詞・過去分詞を用いた形容詞句等、いろいろな文法事項にかかわる原則であると説明されています。

中でも私が「へぇ~っ!!!」と思ったのは、『主語と述語の関係』も『並べると説明』だということ。

 He lives in London.
これが
 “He”+“lives in London.”
というカタマリで区切られ、主語と述語の関係でも、後ろに並べた述語が前の主語を説明しているというのです。

正直言いまして、英文をこのように捉えたことがなかったです。
私は、“He lives”+“in London”という見方しかしていませんでした。
英語はあまり主語と述語という区切り方をして教えないですよね。
そこで区切るよりも五文型で教えられるのが一般的ではないでしょうか?

“へぇ~”ボタンを20回叩いても足りないぐらいです。
もっと早くこういう説明に出会いたかったよなぁ…と感じてしまいますね。
“He”+“lives in London.”と区切ることは、私にとっては“当たり前”ではなかったのです。

それだけでなく、英語は説明を後ろに繋げていく構造になっていることを明示的に示されたことにも驚かされました。

英語は、最初にザックリと言いたいことの骨格を言ってしまい、その後で足りないことを説明していく言語なのだと。
学校で英語を習っているときにもボンヤリと「なんだか分からないけど並んでるなぁ…」ぐらいのことは暗黙的に感じていたのですが、それが英語の構造の根幹に関わることだとは夢にも思っていませんでした。
たまたま私がそう感じたときには、「そうなっているのだから覚えなきゃ…」というぐらいのものだったのです。

でも、普通に習っていると気が付かないところまでその原則が貫かれていて、文の構造も実はそうなっていることを明示的に示されると、驚かざるを得ません。
そして、“He”+“lives in London.”と相俟って、いろいろな文法事項が頭の中で有機的に繋がっていくのを感じたのです。
これをもっと意識的に感じながら英語を勉強していたら、学生時代の英語の成績は全く違っていたでしょう(笑)

『最初にザックリと言いたいことの骨格を言って、その後で説明をしていく構造』は、文法事項だけに留まりません。
英語のライティングで習ったパラグラフの構造もそうなっています。
つまり、英語を母国語とする人たちの頭の中の構造もそうなっているというわけですね。
英語を使っているから、そういう思考になるのか?そういう思考をしているから、英語がそういう構造になったのか?は分かりませんけど。
鶏と卵の関係なのでしょうか(笑)

大西先生が説明されているもの以上に、英語の中に蔓延っています。
『並べると説明』は、かなり広いダイナミックレンジで相似則が成り立っている大原則であると言えそうです。

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2007年1月28日 (日)

名詞+名詞も「並べると繋がる」

前回書きました「並べると繋がる」、英語が堪能な方にはとても当たり前のことですよね。
でも、私のように満足にTOEICの点数も取れない人にとっては、当たり前のことではないのです。
こういうことをもっとしっかり学校で教えてくれたらなぁ…と思うわけです。
もし、英語の先生がこのブログを読んでいましたら是非よろしくお願いします。

『ALL IN ONE』にも挙げられている例を使わせていただきますと、
 railroad station
これはrailroad(鉄道)とstation(駅)が並べられていて、それにより合体して「鉄道駅」になっています。
このあたりは日本語でも同じ感覚なので「当たり前だろ!」と、怒られてしまいそうですね。

でも、次のものが来た途端に、一瞬の戸惑いを感じるようになってしまいます。

 my cousin Katherine (私のいとこのキャサリンは)
 we Japanese (我々日本人は)

“railroad station”では、何の説明用語もありませんが、
“we Japanese”においては、同格と呼ばれています。
同格というと『名詞の後に他の名詞を置いて「つまり…」と補足する関係』と説明されています。
後ろの名詞が「補足」だと捉えると前の名詞が主になるわけですけど、「つまり…」となると後ろの名詞が主になるような感じですよね。
“we Japanese”は、「我々(つまり)日本人」と捉えても「日本人である我々」と捉えてもしっくりきます。
後ろの名詞が前を説明していると考えても良いし、前の名詞が後ろを説明していると考えても良さそうですよね。
敢えてどちらの単語がメインであるとは限定せず、ポン、ポンと並べて繋げ、合体した意味をつくっていく。
つまり、「名詞と名詞が並んで繋がっている」のが本質なわけです。

これが名詞と名詞のふたつだけでなく、もっと沢山の単語が繋がっても本質的には変わらないと思われます。
単語が多くなると、いわゆる動詞や前置詞なども加わり、並べられた単語の関係が明確になったり、繋がり方の強弱が出てきます。
そして、伝えたい意図をより限定していくことになるのだと思います。

ここから、『ハートで感じる英文法』で大西先生がおっしゃっている『並べると説明』に繋がっていくわけです。

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2007年1月27日 (土)

並べると繋がる

このブログを始めてもうすぐ1ヶ月です。
当初は、英語学習の動機付けになれば良いな…という程度だったのですけど、なんだか路線が偏ってきてしまいましたね。
だんだん「学習した内容を記憶にとどめるために、学んだことと考えたことを整理していく」のがメインになってきました。
書いている内容は、専門家や英語の先生から見ると、かなり無茶苦茶なのだと思います。
でも、ブログにアップできるように文にすると、かなり頭の中が整理され、記憶にも定着するものですね。
自分でも驚きです(笑)

アクセスしてくださっている方、感謝です。読んでいただける方がいらっしゃるのは、とても励みになります。
これからも頑張って勉強します。

さて、ここまではシニフィエとシニフィアンということに端を発し、単語レベルで学んだことを整理してきました。
途中、文型に触れることもありましたけど、そろそろ単語よりももう少し大きなカタマリで勉強していかないと、いつまで経っても終わりそうがないですね(笑)
1年後には英文法の基礎は学び終わっていたいですからね。

…というわけで、単語よりも大きな範囲を見ていこうと思うと、もう少し大きなカタマリとは、単語が並べられた時の関係ですね。

『ハートで感じる英文法』には、単語を並べていった時の英語の基本的な特徴がいくつか述べられています。
その中でも感動的な“目鱗モノ”は『並べると説明』というものでした。
気が付くと、とても当たり前のことなのですけど、英語を勉強するときには基本になっていることですよね。
こういった日本語とは違う特徴をきちんと認識できるようにしておかないといけないと思うのです。

この本で勉強していると、本質的で根幹となる英語の特徴は何なのか、いろいろと考えてしまいます。

では、もっと基本的な日本語との違いはないのでしょうか?

それは、「単語を並べると意味が合体して繋がる」ということだと思うのです。

日本語でも言葉を並べていって、言いたいことを伝えているのですけど、
日本語では、「並べて繋がる」というよりも「繋げて並んでいく」感覚なのですよね。

日本語の場合には、動詞にしても繋がるように語尾を変形(活用)させ、繋がるようにして並べていく。
日本語で活用するのは動詞だけではありません。ウィキペディアによると『日本語において活用する語は用言(動詞、形容詞、形容動詞)と助動詞であり、あわせて活用語という』らしいです。
これらの活用は「繋がるようにするための変形」なのだと思います。

一方、英語の場合には、並べることがまず先にあり、並べたことが繋がっていく感じです。
英語でも動詞がカタチを変えますけど、それは繋げるための変形ではなく、伝えたい内容や感覚が変わるために生じる変形だと思います。
上手くいえないのですけど(苦笑)
だから英語は並べ方が重要になっていくのでしょうね。
それで、並べ方を論ずる一つのポイントとして、大西先生は『並べると説明』と簡潔に特徴を表現されているのだと思います。

でも、私のような語学レベルの者が、まずきちんと認識しておかなければならないのは、
それ以前の『英語は単語を並べると意味が合体して繋がる言葉』だということなのでしょう。

「並べると繋がる」、「並べる」ことがまずあるからこそ、並べ方が大事になっていくわけです。

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2007年1月26日 (金)

現在分詞で“クロースアップ”すると見えてくる近未来の予兆

今日も、現在分詞の続きです。
昨日は、『現在分詞は“近接(クロースアップ)”分詞』という仮説は、一応筋が通っている気がするけど…というところで終わっていました。

現在分詞が使われる代表例といえば、進行形ですけよね。
進行形であれば、“まさにその行為が行われている状況”であって、『ハートで感じる英文法』で大西先生がおっしゃっているように『躍動感』という感覚でもそのまま通りそうです。
敢えて『現在分詞は“近接(クロースアップ)”分詞』などと捉えなおして、その感覚を記憶に焼き付ける必要はなさそうです。

でも、『ハートで感じる英文法』の現在分詞について書かれている章(Lesson5『「躍動する」進行形』(P65~)とLesson6『すべての-ingは躍動する』(P81~))を読んでいて、「あれれ?」と思ったのは、そこに「近い将来を表す」と言われている現在進行形の例が書かれていなかったことです。

次の章(Lesson7『未来形なんてない』)の中に、『「予定・計画」を示す進行形』として紹介されているのですが、
I'm playing tennis at 3:30 tomorrow.
のように、未来の時点を表す語句がついていて、ある未来の時を念頭において「このときにはこれをやっている」という具体的な「予定・計画」となる、と説明されています。
う~む…、「このときにはこれをやっている」と考えると『躍動感』があるのかもしれないのですが…
私の勝手な感覚ですと、「近い将来を表す」現在進行形は、まだ行為が行われていないので『躍動感』という感じがしないです。どちらかというと、「(まだ実行していないにしても)そこに向かって、キモチとしては既に変化が始まっている」という感じでしょうか?
行為が実行されている時に感じられる『躍動感』というほどのもはなく、小さな予兆(変化)が始まっている感じです。
小さくても、近寄ってクロースアップしてみると変化がある状態になっている。そんな感じなのかなぁ…

「小さな予兆(変化)がある感じ」から派生していく『「意図」や「原因」』については、『「流れの中にいる」を示すbe going to』として説明されているのですが、それは“be going to”の専売特許ではなく、通常の進行形にもあるのですよね。つまり、be going toもフレーズとしてセットで使われますけど、普通の進行形であって特別ではないと思うのですが…。
ひょっとしたら『ハートで感じる英文法』以外の大西先生の著書には書かれているのかな…?まぁ紙面の都合もあって説明が省かれていたのかもしれません。

というわけで、「『現在分詞は“近接(クロースアップ)”分詞』と捉えることで、
“まさにその行動が行われている”躍動感のある進行形も、予兆があって既に始まっている未来の出来事を示す進行形も、同じような感覚で捉えられるかもしれないです。

…と結論付けたものの、大西先生の『躍動感』という説明の方が、感覚的な分かりやすさという点では良いのかもしれないですね(苦笑)
大西先生はやはり凄いです。

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2007年1月25日 (木)

現在分詞は“近接(クロースアップ)”分詞?

今日は、まだ仕事が終わっていなくてピンチです(苦笑)
ブログに書き込んでいる状況ではないのですが、せっかく三日坊主にもならずに続いているので、今日も気分転換も兼ねて少しだけ英語のお勉強です。

えぇ~と…今日の内容は…過去分詞のお話が続いたので、次に連想されるのは現在分詞ですね。
これはどういう感覚なのか?当然興味がわいてきます。

『ハートで感じる英文法』では、“躍動感”と表現していますね。

なんとなくですが、
・現在形(原形)は、概念だけが並べられたプレーンでフラットな感じ
・過去形、過去分詞は、距離を感じるカタチ
…なのですから、
それらでは言い表せない感覚を埋めあわせる役割があるはずです。
だとすれば、現在分詞は、「グイグイと近寄りクロースアップする感覚」ではないのかなぁ…と想像されます。
距離を感じる過去分詞と対極にあるのが現在分詞で、感覚的にもその逆になる、という見方ですね。

本当かなぁ…???

あくまでも仮説です(笑)
では、この仮説で筋が通るのか考えてみましょう。

現在形(原形)を基点に考えてみます。
現在形は、動作(変化)の概念を表す単語が単に並べられた「プレーンでフラットな感じ」であることから、習慣を感じさせるものとして捉えられるのではないかと以前に書きました。

あの時には、細かい凸凹の模様の付いた壁を例えにして捉えました。
凸凹の変化のある壁でも少し広い面積が目に入るように眺めてみると、一様なプレーンでフラットに見える。
だから、動き(変化)のある概念をプレーンでフラットな感じで捉えようとすると、時間軸で少し広い範囲で捉える感覚が伴い、そこから習慣的な感覚が生まれるものと捉えたのでしたよね。

現在分詞が「グイグイと近寄りクロースアップする感覚」だとしたら、壁の細かい凸凹模様を顕微鏡で見るように、変化がクロースアップされ拡大された感じになります。
この変化がクロースアップした状態が、今まさに変化している「躍動感」に繋がっていると考えられないでしょうか?

そして、状態を表す概念(状態動詞)の場合にはどうかというと、もともとプレーンでフラットな感じであるため、いくら拡大しても変化が見えてくることは無い。
まっ平らなものは、いくら拡大しても平らなまま。
だから、状態を表す概念では、クロースアップできなくて、現在分詞が使われる代表的なカタチである現在進行形にはならない。

一応、仮説は筋が通っている気がしますが、もう少しいろいろなパターンを見てみないとダメそうですね。
でも、今日は時間が無いのでここまでです。

では、仕事に戻ります…(涙)

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2007年1月24日 (水)

過去分詞は、“距離”分詞

…というわけで、やっと一昨日の続きになります。
一昨日書きかけていたのは、『be動詞は時間を固定している』理由でした。

受動態で使われている過去分詞には、昨日の『「とき」は距離』で書いたように距離の感覚があります。
受動態では、その過去分詞の前にbe動詞が出現しています。
これが、be動詞は時間を固定する役割があるのではないかと考えた根拠です。
(引っ張ってしまった割には、たいした理由では無かったですね。ごめんなさい!)

受動態は動作・行為の主体が、文の主人公である主語ではなく、空間的に距離のある別の者が行っている状態を表しているのですよね。
だから、距離の感覚を感じる過去分詞が使われるのですが、過去分詞だけですと、その距離感が何の軸に沿った距離感なのかが分からない。
時間的距離なのか、心理的距離なのか、空間的距離なのか…
だからその距離は空間的距離感であることを示すために、時間軸を固定する必要がある。
そのためにbe動詞が使われているのではないかと思うのです。
状態が存在した時間を動かないようにするのは、意外に大事ではないのかなぁ…と。

整理して書いてみます。
●過去形、現在完了は、時間的に距離感を感じているときの表現
●仮定法は現実離れしていて、感覚的に距離を感じているときの表現
●「丁寧表現」は、聞き手との心理的に距離を感じているときの表現
●受動態は、動作の主体に空間的な距離を感じているときの表現

…というわけで、過去形・過去分詞は距離を感じるカタチということで筋が通りました。
だから、過去分詞は“距離”分詞なのですね。
(ちょっと苦しいか?)

こう捉えると、学校では必ず能動態と受動態の書き換え練習を習ったり、
理解が困難な受動態は、能動態の文から変形して説明したりしますけど、
能動態があって受動態があるのではなく、受動態そのものが独立して独り立ちしている感覚になります。
単なる「書き換え問題」ではない、表現の違いの感覚が分かってくる気がしますね。

ところで、過去形と過去分詞が異なる動詞(不規則動詞)が存在しますけど、
それは何故違う形にする必要があるのでしょうね????
異なったシニフィアンなのですから、根幹となるシニフィエはやはり違う感覚が流れているのでしょうか…????
はっきり言って、わかりません(苦笑)
これは、ゲルマン民族系の言葉がマージされた影響を受けているような気がするのですが、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら是非教えてください。

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2007年1月23日 (火)

『「とき」は距離』

今日は、昨日の続きとして「be動詞が時間軸を固定する役割がある」と思っている根拠を書かないといけないのですが…その前に寄り道します。

『プレーンでフラットな現在形の感覚』で、現在形は「動作や行為の意味内容・概念(シニフィエ)を切り取ったものをポンと置いただけの、とてもプレーンでフラットな感覚である」ことを書きました。

では、それに対して、過去形、過去分詞はどういう感覚なのか?
(不規則変化する動詞は少なからずありますけど、過去形と過去分詞が同じ表記(シニフィアン)となるものが殆どですので、ここでは「現在形」と「過去形・過去分詞」という対比で見てみます)
動詞の表記(シニフィアン)が変化しているのですから、現在形とは別の意味内容・概念(シニフィエ)を切り取っているはずです。
しかも、いろいろなところで過去形・過去分詞は使われているのですけど、共通の表記(シニフィアン)なのですから、根本的な感覚には共通のものがあるはずです。

これについては私がいい加減な考察をするまでもなく、大西先生が『ハートで感じる英文法』やその他の著書で書かれていますよね。
『「とき」は距離』だと。
私にとって、これはとても感動的でした!(笑)
なぁ~るほど!!!と、本当に目から鱗が落ちる感覚ですね。

普通の過去形や現在完了のように過去のことでなくても、仮定法や「丁寧表現」でも過去形が使われていたりします。
その理由が納得できました。
・仮定法は現実離れしていて、感覚的に距離を感じているときの表現
・「丁寧表現」は聞き手との心理的距離を感じているときの表現
英語ではこの距離感を過去形で表現しているわけですね。
大西先生、素晴らしい!

でも、ここでひとつ、疑問が出てきます。

『過去分詞が使われる代表的な表現、受動態は?…』

こう書くと、何を書こうとしているかお分かりだと思います。
この続きはまた明日にしますね。
(仕事が忙しくてだんだん時間が取れなくなってきてしまいました…)

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2007年1月22日 (月)

be動詞が消えずに残っている意義は?

殆どの文ではbe動詞は前後の単語を繋ぐ感覚になるわけですが、シニフィエとしての意味が薄れてくるのなら、
完全に消え去っても問題がないように感じますけど、残っているからには何らかの役割が残っていると考えられます。

今日は、それは何なのかを推察してみましょう。

一つは文の主語を明確にする役割がある気がします。
例えば、
 This is a pen.
be動詞が消え去ってしまった場合には、
 This (a) pen
ですね。
私が仕事上で話をする相手の方は、私は英語が上手くないことをよく心得ています。
私が片言で、
 “This…pen…”
と言ったとします。
たぶん、その場の話の流れや雰囲気から、私が“This is a pen.”と言いたかったことを理解してくれると思います。
(そんなシチュエーションは無いとは思いますけど、“たぶん”です(笑))
でも、意地悪な人やカンの悪い人は、私が何をいいたいのかは分からない。
そういうときには、何を言いたいのか、『何が何だ』と言いたいのかは明確に示さないといけない。
そんなときには“is”を入れて、“This is a pen.”と言わなければいけないのだと思います。

当たり前のことを書いていますね。
でも、私にとっては大発見なのです(笑)
(レベルは低いかもしれませんが、まぁ、勉強とはそういうものなのでしょう(苦笑))

そして、もう一つ考えられる役割は、時間軸を固定することなのかなぁ…などと思っています。
be動詞を文に入れると、一般の他の動詞と同じように、現在形なのか、過去形なのかは示さないといけないですよね。
これは、ある意味、時間軸を固定している(定義している)気がします。
意外に、これは大事な役割ではないのかなぁ…などと思うわけです。

その理由は…今日は時間が無いので、明日続きを書くことにします。

中途半端でごめんなさい!

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2007年1月21日 (日)

be動詞の現在形が「一時的な意味で使える」のも「プレーンでフラットな感覚」

さて、やっと『ALL IN ONE』に書かれていたbe動詞の用法説明にアプローチできます。
===============================
be動詞の現在形は「常日頃…である」という「習慣的(固定的)」な意味と「今は…である」という「一時的」な意味の両方を表すことができます。
===============================
この『be動詞は「一時的」な意味も表すことができる』とのことですが、まぁ確かに、
He is angry.
は「今、怒っている状態でいる」わけですね。
常日頃から習慣的に怒っている人であることを言っているわけではないです。

原点に遡って考えることにします。

一般の動詞を原形でそのまま羅列する現在形では、『プレーンでフラットな現在形の感覚』で書きましたように、
動作の概念をそのまま切り取った単語を並べていますので、動作が実行されている状況を意味しているわけではなく、
とてもプレーンでフラットな感覚があります。
その感覚が基にあって、動作のように過渡的な行為の概念をプレーンでフラットに感じられるようにするためには、広い時間幅で捉えることとなるために、「習慣的(固定的)」な意味合いが出てくると整理しました。

be動詞で「一時的」な意味でも使われるのは、結局、これと同じことなのだと解釈できそうです。

どういうことかというと…
be動詞はもともと「存在している状態」を意味していますし、be動詞の後ろにくる単語が状態を意味するものである場合、一般の動詞のように過渡的な状況を表してはいません。もともと短い時間幅でも状態を表わしているのですから、もともとプレーンでフラットなのです。
だとしたら、プレーンでフラットに感じられるようにするために、わざわざ広い時間幅で捉える必要が無いというわけです。

だから『be動詞の現在形は「常日頃…である」という「習慣的(固定的)」な意味と「今は…である」という「一時的」な意味の両方を表すことができる』のでしょう。
基本は、現在形は「概念を切り取った単語をそのまま並べて意味を伝えているプレーンでフラットな感覚」というところにあるという解釈です。

ふ~む…
こういうふうに捉えると、be動詞が『「今は…である」という「一時的」な意味』で使えるのは、特殊だというわけではなさそうですね。

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2007年1月20日 (土)

be動詞の感覚は、前後の単語を繋ぐ感覚

さて、昨日be動詞のいろいろな角度からの説明を筋が通るように整理しましたので、
今日は感覚的に把握できるようにするためには、どういう感覚で捉えていけばよいのかを考えていきます。
(ここで言っている感覚とは、文の構造を把握するシニフィアンとしての感覚です)

昨日の仮説を軸に考えると、通常の文を読むときの感覚としては、単純に前後の単語を繋ぐ感覚で捉えれば良さそうですよね。
殆どの文はbe動詞の後に何らかの単語が来るパターンですので、be動詞の存在を表す意味は表には出てこないわけですから。
このあたりの感覚は、『=(等号)』に置き換えられる感覚に近いですよね。
ただ、常に『=(等号)』と考えてしまうと
 Today is Saturday.  きょうは土曜日だ
 I'm twenty (years old).  私は20歳です
 He is president [a teacher].  彼は社長[教師]だ
ではいいのですけど、
 This is a pen.
は、なんだか奇妙に感じてしまいます。
『ハートで感じる英文法』には、「英語は並べると説明になる」と書かれていますので、
「繋ぐことで並べられ、前の単語の説明になっている」と捉えたほうが良さそうです。

それで、繋ぐという感覚で文を捉えながら、元は“存在”を意味する意味内容(シニフィエ)であって意味の重複から繋ぐ感覚のにみなったことを念頭に置いておく。そうすることで、単独で出てきたときには
 I think, therefore I am.  我思う,ゆえに我あり(デカルト)
 To be or not to be; that is the question.  生きるか死ぬか,それが問題だ.
 She was being very cheerful at the party.  彼女はそのパーティーではとても快活にふるまった
 Be quiet.  静かにしろ
 Don't be foolish [a fool].  ばかなことを言うな[するな]
等の文での意味を把握する感覚でしょうかね。

かなり頭の中がスッキリしました。

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2007年1月19日 (金)

be動詞の現在形の成り立ち

一般動詞の現在形の話になりましたので、今日はその延長で、be動詞の現在形について整理してみようかな…と思ったのですが、be動詞はなかなか手ごわいです。なかなか上手く整理できません(苦笑)

なぜbe動詞について特に整理しようと思ったかというと、私が教材として使っている『ALL IN ONE』にはこのように説明されているからです。
===============================
be動詞の現在形は「常日頃…である」という「習慣的(固定的)」な意味と「今は…である」という「一時的」な意味の両方を表すことができます。
===============================
(詳細は『ALL IN ONE』をご覧ください)
一般的な現在形では「現在の習慣や固定的な状況・性質」だけなのに、be動詞は「一時的」な意味も表すことができて、特別扱いみたいですよね。違いがあるとすると「何故?」と思ってしまうのが研究開発エンジニアの性分(笑)
多少間違っていても、私は言語学者ではないので、臆せずにchallengeしてみます。

でも、be動詞を感覚的に掴めるようにする前に、その成り立ちを整理する必要がありそうです。

まずはbe動詞についての他の説明も挙げてみましょう。
be動詞についての説明にはこのようなものがあったと思います。
===============================
感覚的には「be動詞自体には意味は無い」
=(等号)と同じ
存在のbe
===============================
たぶん、これらは皆正しいのでしょう。異なった局面での捉え方であるのだと思います。
さて、これらの説明の中に、もし全てを包括するような捉え方があるとすれば、それが最も基本的な感覚であると言えるのですがどうでしょうか…

押し並べて見てみると、=(等号)と同じとみるのが一番汎用性が高く、自分の感覚に近いのですけど…
…というか、今まで殆どそのように考えていました。
学校では「~は…である」と訳すように習った気がしますし。
This is a pen.
「これはペンです」(笑)
でも=(等号)が最も基本だとすると、
I think, therefore I am. 我思う、ゆえに我在り
という意味にはどこから来たことになるのか…分からないですね。
通常は=で、通常とは違う使い方ではbe動詞が強調されて存在という意味が派生してきたのかな…

う~ん…

私が考えたbe動詞の成り立ちはこうです。

(1)
まず、be動詞のもとの意味内容・概念は(シニフィエ)は、「存在している」であると考えられます。
To be or not to be; that is the question..
I am that I am.
等という使い方は、この基本的な使い方であると捉えられます。
意味内容・概念をある領域で区切ったものが言葉の基本であるのなら、それ単体でも意味内容・概念はあるはずだからです。

(2)
次に、be動詞の後に他の意味内容・概念並べられた文について考えると、
そのものがどのような状態で存在するのかを示すことになります。
 She was cheerful.  彼女は快活だった
(彼女、存在した、快活な状態)
でも、「存在する」というのは仰々しいですね。

子供の頃、「昨日何してた?」と聞かれたとき、ふざけて「息していた」とか「生きていた」答えたことってありませんか?(笑)
生きて存在していたことは当たり前なので、どういうふうに“生きていたのか”が問題なのですよね。
「遊んでいた」場合には、遊ぶという状態で生きていたことになりますけど、
「遊んで存在していた」とは答えません。遊べたのは存在していたことを含んでいるのですから。
話をしている対象が存在しているのが前提ですから(実態的にしても概念的にしても)、その意味は文の中では薄れることになります。

『言葉の自然淘汰』で、『ひとつの文の中での意味や役割が他の単語の中に含まれていて、
その単語を言う必要が無いというパターンがありそう』であることを書きましたが、
be動詞の場合には、単語全てが文中から抹消されたわけではなく、シニフィエだけが他の単語に吸収され、
シニフィアンのみが残っている状態であると考えられるわけです。
(be動詞のシニフィアンは文の構造上必要性が残っている)

(3)
ここからbe動詞のシニフィエとしては『意味が無い』ことになり、そしてシニフィアンの感覚としては、前後にある単語を単に繋ぎ合わせる『=(等号)』の状態になったと解釈できます。

This is a pen.
は、“This”というあるものを指し示す概念と、“a pen”という物を示す概念とを純粋に結びつけて、「これはペンです」という意味になっている…

いつもながら乱暴な仮説かもしれませんね(笑)

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2007年1月18日 (木)

プレーンでフラットな現在形の感覚

昨日の「私の彼ね、英語、話すの」という感覚に近い、動作の概念を切り取って羅列しただけの現在形。
今日は、その現在形が『習慣』や『固定的な状態や性質』を意味するようになる理由を考察してみます。

動詞は、動作の意味概念を切り取っただけの単語なので、
それを並べただけなので、とてもプレーンでフラットな感覚があります。
動作の概念であるのにも関わらず、
その動作が実行されている状態を表すわけではない、少し不思議な感覚ですね。

このプレーンでフラットな感覚が習慣を表す鍵になっている気がします。

当たり前ですけど、動作の概念ですから、実行される過渡的な状態を含んでいます。
過渡的な状態とは変化のある状態ですから、感覚としては凸凹ですよね。
それがプレーンな感じになるようにするためには、少し引いてみなければなりません。

例えば、細かい凸凹の模様の付いた塀ってありますよね。
(実は私の家の塀もそうなのです)
近くで見ると確かに凸凹しているのですけど、
少し引いて壁の広い面積が目に入るように眺めてみると一様に見えます。
広い範囲をみることで凸凹がプレーンでフラットに見えるわけですね。

現在形の感覚もこれと同じ。
塀は面積で広い範囲を見ましたけど、
動作概念語の場合には、時間軸で少し広い範囲を見てあげます。
時間軸で少し広い範囲の中に、まるで塀の細かい模様のように
いくつもの動作概念が何度も同じように繰り返し含まれるような感じ。
それを感じることで、プレーンでフラットな感覚になります。

だからプレーンでフラットな感覚の現在形は、習慣を表す感覚があるのでしょう。

固定的な状況や性質についてはどうかというと…
プレーンでフラットな感覚は、変化のある過渡的な状態ではなく、
時間軸で見て変化の無い定常的な状態ですから、
当然、固定的な状況や性質を現すことになります。

というわけで、現在形が『習慣』や『固定的な状態や性質』を意味するように使われる原因は、
ただ動作の概念を羅列しただけのプレーンでフラットな感覚が源になっているのです。

ホントかな…?
まぁ、自分で感覚的に理解できれば良いということで(笑)

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2007年1月17日 (水)

現在形の感覚

このところ、話が横道に逸れてしまっていますので、英語のお勉強に話を戻しましょう(笑)

英単語はシニフィエ(意味内容・概念・イメージ)とシニフィアン(表音)と捉えると
スッキリして感覚的に分かったような気になってくることがまだあります。

それは現在形のニュアンスです。

例えば、前にも例として引用したものですけど、

I walk.

“私”(という意味概念)+“歩く”(という意味概念)が連なっただけのもの。

日本語にすると、「私は歩く」ですよね。

現在形を勉強したときに言われることは、
・今現在(今の瞬間)、その動作を行っているものとは限らない。
・現在の習慣や固定的な状況・性質を表す
なんてことを聞きます。

私も「ふ~ん、そうなんだぁ~」と思っていましたけど、感覚的にはわかっていなかったかもしれません。

根本的に概念を切り取られたものが二つ並んだだけと考えると、
習慣として理解するよりも、もっとプレーンな感覚が基本にあり、
ある状況では習慣を表すが、そうでないときもある
というのが感覚的につかめてきます。

ある女の子が、自分の彼を自慢してこう言ったとします。
「私の彼ね、英語、話すの!」
この感覚ですよね(笑)

私の彼は英語を話す。
でも、毎週決まった時間に英語を話す習慣があると言っているわけではない。
(毎週ある時間になったら突然英語を話す人がいるわけではないです(笑))
私の語学レベルですと、海外出張があるとなると頭が英語に馴染めるように
数日前から集中してリスニングの訓練をしたりしますが、
そういうふうにウォーミングアップができていて
「いつでも英語を話せる状態にある」と言っているわけでもない。
ただプレーンに、概念を並べて「英語、話すの」と言っているのです。
この感覚ですよね(笑)

うまく表現できないですけど、
習慣とか状態とか言葉で理解するのではなくて、
感覚で理解するのって大事ですよね!

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2007年1月16日 (火)

言葉の自然淘汰

文献の引用ついでに…というわけではないですけど、同じ文献からもうひとつ引用させていただきます。
この文献は仕事でよく参照させていただいているものであって、言語学のものではないのですけど、
いろいろなことが簡潔に書かれていて、読んでいるとインスピレーションが沸いてくるので、とても参考になってます。

=======================
(e)連想構造と意味構造
 言葉は、他の言葉を連想するという性質を有している。また、論理的な因果関係を有し、その言葉特有の意味構造を有している。これは言葉の増殖性と多義性が原因となっていると考えられるが、このことは言葉と言葉が、その含意(意味されるもの)の重複性を有し、また言葉が単に相対化されたものであり、実体はないことを示している。
=======================

難しいことは良くわかりませんが、
「異なった言葉は異なった意味内容や概念の区切り方を表すためにあって、その違いが微妙で重なった意味内容の領域を持つものもある。違いを表す相対的なもの」
というふうに理解しました。

つまりは、違いが無い言葉は、言葉としての存在意義が無いということなのでしょうかね。

もし全く同じ意味の言葉が二つあったとすると、どちらかひとつは存在する意味が無いので使われなくなり死語になる。
要らなくなってしまいます。
残っている言葉は、存在する意義があるから残るのですよね。

必要が無い言葉(単語)は自然淘汰されていく。

自然淘汰されていくパターンは、上述のように
言葉(単語)の存在そのものが無くなってしまうパターンと
ひとつの文の中での意味や役割が他の単語の中に含まれていて、
その単語を言う必要が無いというパターンがありそうですね。
在っても文の意味が変わらないのなら、無くてもいいわけです。
これが単語の省略なのでしょう。

言葉には歴史があります。
この長い悠久の歴史の中で、消えていかなかったものには、
他では代替出来ない、他には含むことの出来ない意味があると考えられます。

時々、be動詞には意味が無いという説明がありますけど、
be動詞には意味(役割?)があるから残っているのだろうなぁ…

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2007年1月15日 (月)

和製英語はパロールの次元

先日『言葉の増殖性』で引用させていただきました文献にはこんなことも書いてありました。
=========================
(c)ラングとパロール
言葉には社会の中で定まったコード(規範)の上に成立するラングの次元と、個人的で比較的コードのゆるやかなパロールの次元がある…
=========================

言葉の意味内容が社会的に共通認識され、それによって伝達しているのがラングで、
社会的な共通認識はないけれども、ある特別な意味を与えて用いられているのがパロールだというわけでしょうか。

言葉として発し、その言葉の聞き手が意味を理解するためには、共通の伝達方法や語彙が必要となるわけですね。
とても当たり前ですけど、単語の意味が食い違ってると、いくら同じ表音(シニフィアン)を聞いても、意味は伝わらなくなってしまいます。
新しい言葉は、最初はローカルに使われ、それが拡がっていくのでパロールからラングの次元に移っていくものと解釈できそうです。
また、同じ言葉でもラングの次元で使われる意味と、パロールの次元で使われる意味がありそうですね。

例えば、“愛”という言葉は、誰もが理解できるラングであるとともに、
その理解する深さや定義によってパロールの次元も有していることになります。

う~む…言葉って奥深いですね。

和製英語がネイティブに伝わらないのは、和製英語がラングの次元になっておらず、パロールの次元だからなのでしょう。
少なくとも、英語を学ぶ場合にはラングの次元で扱えるようにしなければならないわけですね。
辞書に載っている語彙はラングであると考えていいのでしょう。

ところで、このブログを立ち上げてすぐのころに書きました『とりあえず、今、勉強している本は…』の中に
“アップフレーミング”という言葉を使っていました。
これって、どうやら共通語ではないパロールの次元の言葉だったようです。
すみません…
和製英語どころではない、私製英語ですね(苦笑)
(どこかで使われているのを聞いた覚えがあるような気もするのですが…)

あの中では、
『個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的に捉えられる上位の概念に帰納し(UP)、
ひとつの上位概念で捉えられる枠組みを広げること』
という意味で使っていました。

仕事上でたまに使っても周りの人たちは理解してくれますので
つい使ってしまいました。

いかん、いかん、気をつけないと(苦笑)

でも、まぁ、このブログだけで通用する言葉があってもいいですかね(笑)

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2007年1月14日 (日)

連想ゲームで拡がる言葉の意味

昨日の文の「言葉は連想ゲームで広がっていく…」なのですが、
論文で書かれていたことからの推測だったのでスッキリしませんでした。
けど、言葉が連想ゲームで意味が広がっていっているものなのかどうか、実際に確かめてみればいいですね。
といっても、全ての単語を確認するわけにはいかないのですけど(苦笑)

一例でもいいから、何か適当な単語はないものか…
思いついたのは、“book”(笑)
知らない人はいない単語ですね。これは“本”です。

でも、“予約する”という意味でも使いますよね。
ダブって予約が入ってしまっているときには、“ダブル・ブッキング”なんていいますから。
(辞書に載っていなかったのですが、ひょっとして和製英語?)

これって前からとても不思議でした。
「“本”と“予約する”って、全然関係ないじゃない?」って。

そこで辞書を引いて確かめてみました。

まず、“本”という名詞で用いられる主なものは…
=========================
1 本,書物,書籍,単行本;著書,著述,著作.
2 帳面,とじ込み;《~s》帳簿,会計簿;(競馬などの)賭(か)け帳
3 (書物の)巻,編
4 《通例the B-》聖書.
5 (オペラ・オペレッタなどの)台本,歌詞;(ミュージカルの)脚本;〔ジャズ〕(楽団の)演奏曲目.
=========================

続いて、“予約する”というものは…
=========================
1 …を名簿[帳簿]に載せる,記入する;記録[登録]する《 down 》.
2 《英》[Ⅲ慥]〈部屋・座席・切符などを〉予約する;[book A B/book B for A]〈A(人)にB(席・部屋など)を〉予約してやる,の予約をとる;[Ⅲ慥(慱)]《英》〈人に〉(ホテルの部屋を)予約してやる《 in/at... 》;〈申込者に〉切符を発行する,出札する;〈切符を〉買う
3 …と出演[講演など]の契約[予約]をする
4 〈容疑者を〉警察の記録に記入する,調書をとる.
=========================

ははぁ…なんとなく分かってきた気がします。

本というと、書籍のように「活字の載った紙を束ねているものから書いてある情報を読み取れるもの」というイメージを持っていたのですが、
それだけでなく、台帳とか帳面のように「情報を書き込める紙を束ねたもの」が“book”の基本イメージだったみたいですね。
書き込めるのだから、そこには情報は当然載っていて、その情報を読み取る側の方に発展すると書籍になるのでしょうか…

それで、予約をすると、台帳に記録をすることになるので、bookにも“予約する”という意味が連想ゲームで拡がった…
そんな解釈が出来そうですね。

なるほどね…
一見関係のなさそうな意味であったとしても、「元はひとつの基本イメージから派生している」と捉えてそれをおさえておけば、記憶にも残りやすそうですね。

う~む、なんとなく納得です。
たったひとつの例でしかないわけですが、スッキリしたような気がします。
当然、例外も沢山あるのでしょうけど(笑)

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2007年1月13日 (土)

言葉の増殖性

ここまで書いたことを再整理してみます。
・言葉はシニフィエとシニフィアンにより構成されている
・英語は比較的その言葉の構造に忠実であると考えられる
・シニフィエの意味内容・イメージ・概念をきちんと抽出して把握することが大事である
・英語のシニフィエ(意味内容・イメージ・概念)は日本語とは1対1で対応していない場合が多いので、
 複数の日本語訳を参照して概念をきちんと切り取ることが必要。
と捉えてきました。

でも、日本語に対応させる時だけでなく、英単語自身が複数の意味内容を持っている場合がありますよね。
昨日引き合いに出した“in”も、英単語自身が複数の意味内容を持っているように思えてしまいます。
こういうときにはどう捉えたらいいのでしょうね?
やはり基本的なひとつのある意味内容・イメージ・概念に収束していくものなのでしょうか?

そんなことを考えながら、行き詰ってしまいました(苦笑)
う~む…

私は研究開発エンジニアをしていますので、仕事柄、論文や文献を読むことがあります。
ある文献にこんなことが書かれていました。
=====================
2.4 言葉の性質
   (…中略…)
(b)増殖性
 言葉は対象とするものそのものを実体として示すのではなく、他の言葉との差異化・差延化によって相対化されたものであり、その結果個人内、および多数人の思惑によって言葉が言葉を生むという増殖の傾向がある。
=====================

言葉は、ある意味内容・イメージ・概念を切り取ったものを伝えるための道具です。
他の言葉では概念をなかなか伝えにくいので、新しい言葉を創って伝えようとしているのですよね。

最初に新しい言葉を聞いたとき、概念の区切り方の説明は、たぶん同一ではないはずです。
殆どの場合、新しい言葉は辞書には載っていなくて、その意味内容は、伝え聞いたり、使われている状況から想像していきますので。

意味内容の本質的なところは共通していても、細かい内容に関しては想像する内容や、使われる状況は微妙に違ってきますから、
それが積もり積もって意味が広がっていくのかなぁ…

だとしたら、本質的な言葉の幹になる部分は共通しているのだろうから、
やはり基本的なひとつのある意味内容・イメージ・概念に収束していくものなのかなぁ…

…などと思ったわけです。

う~む…なんだかスッキリしませんが…(苦笑)

まぁ、結論一言で言うと、『言葉は連想ゲームが広がっていく。だから、ひとつの英単語でいろんな意味内容・イメージ・概念はあっても、基本はひとつ』ということなのでしょうか?

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2007年1月12日 (金)

“in”の品詞は?

問題です。“in”の品詞は何でしょう?

このブログをお読みいただいている方は
「どうせまた、『品詞は文になって始めて決まるのだから、単語だけでは意味が無い』とでも言うのだろう?」と、思われているかもしれませんね。

もし、学校の授業での真面目な聞かれている状況だとします。
そんな答えをすると殴られてしまいますね。
(今、学校でそんなことをしたら大問題ですかね(笑))

私だったらこう答えたでしょう。
「前置詞です。副詞になるときもあります。」………

実は、「品詞を意識するよりも、その概念をきちんと捉えるほうが重要な例」として“in”や“on”などの基本的な前置詞のことを書こうと思っていたのです。
基本的な前置詞と副詞は比較的容易に抽象的な感覚で理解できるので、殆ど品詞を意識している人はいないと思っていましたから。

それで、一応“in”を辞書で引いてみました。
そうしたら…見てみてビックリ!

前置詞・副詞だけではありません。

なんと、前置詞、副詞だけでなく、
形容詞、名詞、そして、動詞までありました。
少なくとも、私のPCにインストールしている辞書にはそう書かれています。

これって英語が精通している方には常識だったのでしょうか?
おはずかしながら、私は全く知りませんでした。
修行が全く足りていないですね(苦笑)

文の中での役割がこんなに変わっているものだったのですねぇ~!

ちなみに、“in”の名詞での意味は、
=================================
1 与党議員;《the ~s》与党(⇔outs)
2 《略式》手づる,コネ,引き .
3 《the ~s》〔スポーツ〕攻撃側.
4 (1) 《通例~s》(テニスなどで)イン:ライン内にはいったサービス[レシーブ].
  (2) 〔野〕インカーブ,インシュート.
=================================

動詞での意味は…
=================================
━ [動]/in/(~ned, ~・ning)《方言》
1 〈作物・干し草などを〉取りいれる.
2 〈荒地などを〉囲う,開墾する.
=================================
だそうです。

これでは、『“品詞”の重症』で書いたような
品詞を軸にした読解は、私には不可能です……

これって、やはり全部覚えないといけないのでしょうか?

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2007年1月11日 (木)

to不定詞の“to”と前置詞の“to”は、同じ“to”

品詞をあまり意識せずに「概念が区切られたもの」として英語をながめてみると、
「なんだぁ~そんなことだったのか!」と思える発見があります。

それは、『to不定詞の“to”と前置詞の“to”は、同じ“to”である』ということ。

通常は次のように区分されます。
  to不定詞:後ろに動詞の原形が来る
  前置詞のto:後ろに名詞がくる
でも、動詞も名詞も、同じ「概念が区切られたもの」なのですから、
どちらが来ても変わりはない。
to~という同じカタチをしていて、品詞で区分することがないのだから、
後ろに動詞が来ようが、名詞が来ようが関係ない。
同じtoの役割をし、同じ抽象的概念を意味している。
ただそれだけのこと。
toはtoなのです。

なんだ、ただそれだけのことなんじゃない。
小難しい名称を付けられると、それだけで「ダメだぁ~、理解不能!」と感じていました。

to不定詞の“to”と前置詞の“to”は、同じ“to”
抽象的な感覚での話にはなりますけど、同じ“to”

別の見方をすると、
“to”自身も、同じシニフィアンなので同じシニフィエを切り取っているのだから、同じ“to”
とも言えますね。

『ハートで感じる英文法 会話編』(P10)には、このように書かれています。
=====================================
まず確認しておくべきこと:不定詞のtoは特別ではない
=====================================
正直、私はこれを読んだときに、「えっ?なんで?なぜ違わないの?」と思ってしまいました。
全然別物だと思ってましたから。

別の呼称が与えられているのですから、それを切り取っている概念も違うものだと
錯覚していたのです。
(別のシニフィアンなのですから、別のシニフィエだと思ってしまうわけです)
普通はそう思いますよね。

『ハートで感じる英文法』には、上述したような特別ではない理屈までは書いていませんでしたけど、今は何故そうなのか?も納得できたような気がします。
(気がしているだけ?(笑))

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2007年1月10日 (水)

“品詞”の重症

昨日のタイトル『品詞には意味が無い?!』は、少々語弊があったかもしれないですね。
英語の先生からクレームをつけられてしまいそうです(苦笑)
英文を読み書きするときに、全く意味がないわけではないのですから。
まぁ、「シニフィエ(意味内容・概念)をしっかり把握することが第一優先」という少々割り切った見方ということで。

それにしても、動詞とか、名詞とか、前置詞、冠詞のような品詞分類は、
自分ではどのように役立てていたのかなぁ…

今までのことを振り返ってみると…
動詞だから、文章を作るときに動詞の位置に置く。
前置詞だから、前置詞のところに置く…と、考えていたような気がします。
文章を書くときには、文法的定型の枠があって、その枠の中に相当する品詞を入れていたような気がします。
文章を読むときには、難解な文章だと、「動詞はどれだ?」「主語はどこまでだ?」
と品詞が分かる単語を探して、品詞の配置から文の構造を判断していたりします。

ですから、同一の単語の表記でも、名詞と動詞の両方がある単語が混ざっていたり
全く見たことも無い単語があるとワケが分からなくなります。
特に文章構造の基本形から外れてくると、もうお手上げですね(笑)
「分からない単語があっても前後の文脈から想像して読み流す」なんてことは無理です。

品詞の区分を考えているうちに身動きが取れなくなってしまうのです。
これではTOEICを最後まで解けるわけないですよね。
まさに、“品詞”の重症です。
(オヤジギャグでごめんなさい!)

単語と品詞を対にして覚えて、品詞を頼りに文を理解しようとしたり表現しようとしていた原因は、
日本語と英語の基本的な言語の成り立ちをあまり意識せずに勉強してきたからみたいですね。

日本語は、ある面、かなり特殊なのかもしれません。
例えば、日本語の“書く”という動詞は、
======================
書かない   書きます   書く   書けば   書け   書こう
======================
昔懐かしい(?)動詞の五段活用です。
動詞が変化している。
つまり、動詞という品詞の中に活用形が含まれ、
単語の中に動詞的意味(役割)の片鱗が含まれていることになります。

このように日本語は、単語に動詞的意味が含まれている(対になっている)ので、
英語も当然そうなっているはずだと暗黙のうちに決めつけて学習していたような気がします。
日本語と英語との構造上の違いは、こんなところにもあったのですねぇ~

……そういえば、日本語が堪能でない人のマネをして、
『ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセ~ン!』
と冗談で言ったりすることがありますよね。
(えっ?!誰もそんなクダラナイことはしない?)

「私は日本語が分かりません」という文から修飾関係を示す助詞が欠落してしまっていますけど、
単語を日本語的な単語の配置にすることで、文として意味を伝えているのですよね。

う~む………異邦人の日本語攻略法、恐るべし!

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2007年1月 9日 (火)

品詞には意味が無い?!

『英語はシニフィエとシニフィアンが比較的明確な言語』という前提に立つと、『言葉はシニフィエとシニフィアンが対となったもの』という基本に、英語は日本語よりも忠実になのかもしれません。そう考えると、動詞とか名詞という品詞の分類はあまり意味がないのかなぁ~と思えてきます。

大事なのは、意味内容の概念と、それを表す表音記号を対にすることなのですから。

それをストレートに捉えると、例えば、
 ・動詞は、動作の概念を切り取っているだけの単語
 ・名詞は、モノの概念を切り取っているだけの単語
と捉えることが出来ます。
それらの概念を切り取ったものを並べて文章になっているわけです。

例えば、

 I walk.

これは、
 “私”(という概念) “歩く”(という概念)
ただそれだけです。
それが2つ並んで、始めて「私は歩く」という文章としての意味を持つ。
walkに「~(主語)が歩く」という動詞的意味があるのではなく、
あるのは飽くまでも“歩く”という概念を切り取った意味内容があるだけなわけです。
文の構造に、概念を示す単語を当てはめたときに、動詞的意味を持ち、文章としての意味を持つのではないかと思えるのです。

 I take a walk.

これはwalkが名詞として使われています。
でもこれも、“歩く”という概念を切り取られ置かれているだけ。
同じwalkです。

シニフィアンは共通の、“w”+“a”+“l”+“k”
だからそれと対になって切り取られている概念も一緒。

…そうかぁ!ただそれだけのことなんだ!
いろんな概念が切り取られたカタマリ(単語)を並べたものが英語なんだぁ~っ!

『ハートで感じる英文法』には、『文型にも感覚がある』と書かれています。
(Vol.2、P196、P216~)
文のカタチ自体に伝えたい状態・感覚が含まれているらしいです。
例えば、
 ・SVOは「力が及ぶ」感覚
 ・SVOOは「受け渡し」の感覚
だそうです。

「文のカタチ(単語の配置)によって、伝えたい意味が変わってくる」
 =「配置されたときに初めて文としての意味を持つ」
上述の仮説を裏付けてくれます。

だから単語と品詞が対になっているわけではない!
文章があって初めて品詞が結果的に決まる。
辞書に書かれている品詞は、用例に過ぎない。
名詞にしても動詞にしても、概念が切り取られている名称であることには変わりはないのです。

英語熟練者にとって、これは当たり前のことかもしれません。常識なのかもしれません。
でも、気づいた英語未習熟者にとっては大発見なのです(笑)

結構嬉しいです。とても気が楽になります。
何故って、区別する必要が無くなるのですから!
品詞を覚えるよりも、切り取られている概念をより正確に抽出し、把握することが大事なんだぁ~っ!!!

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2007年1月 8日 (月)

英語はシニフィエとシニフィアンが明確な言葉?

今日から仕事が始まりました。今日は祝日なのですから、どうせなら今日も休みにして欲しかったのですけど、そうは問屋が卸さず、休みボケの頭に鞭打ちながら仕事してきました。
今年はこれから通勤時間を利用してリスニングの訓練をしていきたいと思っています。
今日は『多聴多読マガジン』のCDを聴きながら通勤です。

さて、昨日のブログ記事の補足です。
昨日は、自分の感じていることを表現したいがために、思いつくままにシニフィエとシニフィアンという用語を用いてしまいましたが、私も詳しく分かっているわけではないので、「いい加減なことを書いていたらマズい!」と思い、多少調べ直してみました。

昨日参照したWikipediaの表記を改めてそのまま引用させていただくと、このようなことが書いてあります。

シニフィエ(記号内容、所記)  海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容
シニフィアン(記号表現、能記)  「海」という文字や、「うみ」という音声

Wikipediaでは単語レベルの例しか書かれていませんが、昨日のブログでは次のように拡張して捉えさせていただきました。
●シニフィエ:意味内容・概念 ⇒伝えたい内容・概念 = 単語・フレーズ・文章・パラグラフの意味
●シニフィアン:表音方法 ⇒伝える方法(手段) = 単語のスペル、単語・句・節の配置方法(文法)

シニフィエ(意味内容・概念)とシニフィアン(表音方法)とが対になって「シーニュ」(記号、すなわち言葉)となるそうです。

シニフィエは概念をある範囲で切り取っているわけですが、その概念の切り取り方が言語や文化によって違うようです。
切り取り方が違うということは、言語(単語)の意味が必ずしも1対1で対応していないということになります。たとえば、日本語の“単語”という言葉は“word”を対応させていますが、“単語”と“word”というシニフィアンで切り取られる意味内容や概念の範囲は同一ではないわけです。

1対1で対応していない言語で単語の意味を説明したり理解しようとするから、やたらにいろんな日本語訳があるように感じて、ワケが分からなくなるのですね…
中学や高校のころに英語の先生から、「辞書を引いたら全ての意味に目を通しなさい」と言われていたのは、「日本語の意味を全部覚えなさい」という意味ではなく、「1対1で対応してない英単語の概念が切り取っている範囲を把握しなさい」という意味だったのですね。そうかぁ~そういう理屈かぁ~…と改めて納得です。
英語が堪能な方には常識だったのかもしれませんが、今、理解できました(笑)

言語や文化によって切り取り方がある程度変わってくるのは仕方のないことなのでしょうけど、英語は文化によるブレが少なく、シニフィエとシニフィアンとの対が比較的明確な言葉なのかなぁ…と感じます。
もし、シニフィエ(意味内容・概念)の切り取り方が影響を受けやすいのだったら、同じ表現をしても通じなくなってしまいますからね。世界各地で使えなくなってしまいます。英語と米語の違いがあるように、全くブレが無いわけではないのでしょうけど。

シニフィアンについても、日本語よりも遥かに明確なのかもしれません。
シニフィアンの基本である単語についてみてみると、例えば日本語では
『むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんはやまにしばかりに、おばあさんはかわにせんたくにいきました…』
と、どこが単語の切れ目かも分かりにくいですよね。
英語の場合には、単語と単語の間にスペースが入って明確に分かれていますし…

…そうかぁ…だから、小学校低学年の国語の教科書では
『むかしむかし、あるところに おじいさんと おばあさんが いました。おじいさんは やまに しばかりに、おばあさんは かわに せんたくに いきました…』
と、スペースを入れてシニフィアンを分かりやすくしているのですね!分かりやすくする必要があるぐらい日本語はわかりにくい(笑)

英語が堪能な方が、時々、「英語は日本語よりもやさしい」と曰わくことがありますけど、こういうふうにシニフィエとシニフィアンが比較的ブレが少なく明確であるからなのかもしれないと、勝手に納得させていただいたのでした。

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2007年1月 7日 (日)

英文法をカタマリにする

昨日このブログに、英語(語学)の習得は“感覚的・無意識的にできるようにする”点で身体運動の習得に近いのではないか?ということを書きました。

だけど…スポーツに代表されるような身体運動と同じアナロジーで捉えて英語を習得するのってどうすればいいのでしょうね?…等と、また変な思考にハマってしまいました(苦笑)
そもそも、スポーツの習得も学問の一分野として成立してしまうぐらい難しい話なのですよね(笑)

難しい話は分からないので、とにかく“感覚的・無意識的にできるようにする”ためのひとつの方法としては、『ハートで感じる英文法』のように“文法”を根底にある共通の概念で捉えられる大きなカタマリにして感覚的に捉えられるようにするのが、やはり大事なのかなぁ~と思うわけです。だから“ハートで感じる”なのですね。実に上手いネーミングで感心してしまいます。

もちろん、英語の構造を理解するだけでは不十分で、スポーツに練習が必要なように、身体に覚えこませる(=感覚化する)訓練も必要なのでしょうけど。でも、練習だけを根性論でやってもポイントを外していたら上達は遅いはずですからね。

「カタマリにする」と書くと、今までも「意味をカタマリで捉える」必要性は耳タコで言われてきました。『チャンク英文法』という本もあります。でも、文をカタマリにするのと、文法的な側面をカタマリにするのとは全然違う気がするのですよね。なんか上手く言えませんけど…(苦笑)
「何を伝えようとしているのか?」という内容のカタマリと、それを伝えるためのツールとして英語を操るための方法を概念的なカタマリにするのとは次元が全く違うと思うのです。(フレーズは表現方法としてはカタマリになっていますけど、操るための方法としてはカタマリになっていませんし…)

ちょっと分かりにくい話になってしまうかもしれませんが、言語学的にみると言葉はシニフィエとシニフィアンとが組み合わされているらしいです。
シニフィエとは、言葉の意味内容(ex.海のイメージや、海という概念)で、
シニフィアンとは、表音する記号(ex.「海」という文字や、「うみ」という音声)だそうです。
乱暴な言い方をしてしまいますと、この捉え方は単語レベルだけでなく文全体に適用できるはずで、「文の意味をカタマリで捉える」場合のカタマリはシニフィエの方で、「英語を操るための方法をカタマリにする」場合のカタマリはシニフィアンの方だと思うのですよ。
これでは何を言っているのか分からないですよね(苦笑)

まぁ、結論としましては、『ハートで感じる英文法』のような「英語を操るための方法を概念的にカタマリにする教材がもっと沢山出てこないかなぁ~ということなのですけど(笑)

今の関心事としましては、『ハートで感じる英文法』は従来の英文法を上位概念で括っていますけど、それを更にもう一段上位の概念的なカタマリに括るとどうなるのか?…そして、またそれを括っていくと、どんな内容に帰結するのか?…

どなたか、そういう内容の英文法解説書を出していただけないでしょうか?

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2007年1月 6日 (土)

語学能力と運動能力

英語の勉強をしていて常々思うことがあります。それは語学を習得することと、スポーツ等の身体運動を習得することはかなり近いことだということです。
今までもよく言われていたことといえばそうなのですけど、改めて実感しているという感じでしょうか…

とても当たり前のことですけど、私は日本人ですから日本語は何も意識せずに使うことができます。話そうとしている内容が、感覚的に言葉に変換されているわけです。言葉への変換作業は殆ど無意識に行うことができます。でも、英語となるとそうはいかなくなります。文法を意識し、単語を意識し、そして発音を意識します。感覚的かつ無意識に行うことなんて、今の私の語学力では到底無理です。でも、英語が堪能な方や、英語を母国語とする方はそうではないのですよね。おそらく、私が日本語を話すのと同じように、感覚的に無意識的に考えていることが英語に変換されているのだと思います。

この“感覚的・無意識的にできるようにすること”が身体運動の習得に近いな…と思うわけです。

例えば、一般の健常者であれば、歩行という運動は意識しなくてもできる身体運動ですけど、実は二本足での歩行はとても難しい行為だったりします。ロボットが二足歩行できるようになったのは、つい最近のことです。でも、人間はそれを感覚的に行うことができ、ほぼ無意識的にも行えるので、歩きながら携帯でメールを打てたりできてしまうのですよね。“歩く”ことは行為の感覚的な一つのユニットになっていて、誰も歩きながら「右足を前に出して、重心を前に移動させながら立ち足の上に乗せて…」なんて意識しません。そんなことを考えていたら普通に歩けなくなってしまいます(笑)

英語が未熟な私は、英語を話すとき、これと同じようなことが起こっているのですよね…。文法を意識し、単語を意識し、発音を意識してしまい、普通に話せなくなっているわけです。

歩くことと同じように、日本語と同じように、“感覚的・無意識的”に英語を使えるようになることが私の目標です。

語学能力と運動能力の習得が同じアナロジーで捉えられるとすると、それを意識した勉強方法をしていかないといけないのかな…と思う今日この頃です。

…ということを考えていて、今日はあまり勉強していません(苦笑)
考えているだけでは、運動能力が身につかないことはあまりにも自明ですので、精進しなければ!!!(笑)

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2007年1月 5日 (金)

多読入門

昨年末から、易しい英語のReaderを読むことにハマっています。以前は「英文の原書を読むなんて夢のまた夢…」と思っていましたけど、易しい本ですと、英語の本を読んでいるというよりもストーリーを楽しむことができます。将来的にはペーパーバックを辞書なしで読むことも実現できぬ夢では無さそうな気がしてきます。もちろん錯覚に陥っているだけかもしれないですけどね(笑)

多読の道へ導いてくれたのは、コスモピアから出版されている『多聴多読マガジン』です。昨年の夏に創刊され、まだ2号までしか発売されていませんが、お気に入りの雑誌です。この雑誌の特徴は、“YL”という“読みやすさレベル”という独自の難易度の尺度を採用していて、出版社ごとに異なるレベルを統一的に扱いながら多読用の本を紹介していることです。易しいものから中級クラスまで数多く紹介されていて、Readerの原文も掲載されていますので、その文に目を通しながら、自分の“YL”(読みやすさレベル)を判断できます。掲載されているReaderだけでも十分楽しめてしまいます。惜しむらくは紹介されている本すべてにYLがついているわけではないことでしょうか…。今後の改善を期待しています。

とにもかくにも、英文を怖がらず、分からない単語があっても恐れずに、ガシガシ読んでいく楽しさを教えてくれたことは、十分評価に値します。すばらしい編集コンセプトです。
多読と精読(いわゆるお勉強)とのバランスを取りながら進めていくと長続きできそうです。第3号の発売が待ち遠しい!!!

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2007年1月 4日 (木)

“スラスラ感”は心地よい

めでたく三日坊主の名前にある三日目を通過し、このブログも四日目に突入です!
めでたい、めでたい!英語の勉強が進んでいるかは別の話ですが(苦笑)
あまり喜んでいると、明日からアップされないかもしれず気を引き締めないといけないのですね。まぁ、世間一般から見ると、三日目に終わろうが、四日目に終わろうが大同小異。同じ“三日坊主”として見られてしまうわけですから。

さて、このブログは元日から始めたわけですから、今年も四日目。三箇日も終わって気持ちも徐々に落ち着き始めました。気持ちが落ち着いてくると、自分の足元が目に入ります。ズボラな私が年末の大掃除が済んでいるわけもなく、今日は、手が回らなかった自分の部屋を片付け始めました。

でも、掃除を始めるといろいろなものが目に付いて、捗らないものなのですよね(笑)
「あ~、懐かしいものがこんなところにあった…」とか、「この本は買ったまま読んでいなかったなぁ~」と。

今日、掃除中に気になって読んでしまった本は、
NAUSICA IN THE VALLEY OF THE WIND
『風の谷のナウシカ』です(笑)

これはご存知、宮崎駿監督の名アニメを英語に翻訳したもので、かなり昔に英語の勉強のために買ったものでした。レベルは中学~高校のReader級です。分からない単語があるもののスラスラと読めます。このスラスラ感がとっても快感で、「自分はひょっとしたら英語ができるのではないか?」と勘違いしてしまいます。でもこれが本当に心地よい(笑)

同じシリーズでLOVE ADVENTURE OF LAPUTA(天空の城ラピュタ)も買っていましたので、また時間をとって、スラスラ感に浸ってみようかと思います。

…でも、こんなことをしているから掃除が進まないのですよね…(苦笑)

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2007年1月 3日 (水)

勉強している本、Part2

今日は年が明けてから早くも三日目。
ブログも立ち上げて、英語を勉強する気、満々!!!…だったのですが、なにかと用事があって今日も殆ど勉強の時間を取れませんでした(苦笑)
人生こんなものなのかもしれません。勉強をする時間がタップリと取れる学生時代には勉強せず、勉強したいと思うときにはなかなかその時間が取れない。そんなものなのでしょう(笑)

今日も昨日に引き続き、勉強中の教材のご紹介です。

『ALL IN ONE』高山英士著(Linkage Club)

限られた書店でしか手に入らないようですが、大きな書店では置いているようですので見かけられた方も多いかと思います。
コンセプトは、「単語、熟語・構文、文法・語法、英文読解を1冊で勉強できる」というもので、かなり意欲的な学習書です。ほぼどこの本屋さんでも置いている『DUO』に英文法の解説を加えたような感じです。英文法に関しては、昨日ご紹介した『ハートで感じる英文法』と対照的に、かなり細かく解説されています。本の構成の軸も文法中心に編成されています。
自分としては、『ハートで感じる英文法』で大括りの概念的なところを勉強し、その概念が細分化していった細かい文法事項をこの本で勉強しています。この組み合わせで勉強をすると、『ハートで感じる英文法』に書かれている内容で、学校で習ったかなりの文法事項をカバーしていることが分かります。…正確には、「分かりそうな気がする」ですけど(笑)
正直言いますと、『ハートで感じる英文法』に出会う前にこの本で勉強していましたが、解説が細かく書かれているために、私の記憶力ではカバーできませんでした。でも今は理解できそうな気がします。アップフレーミングした概念だけでは、本当にカバーできているのか不安になりますけど、これで詳細の文法事項をカバーしています。
『ハートで感じる英文法』の副教材的な使用方法をしています。

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2007年1月 2日 (火)

とりあえず、今、勉強している本は…

「生涯学習のユーキャン」のTV-CMで野際陽子さんが掲げていらっしゃる『三日坊主を恐れない』という言葉はなかなかいいですね。
昨日書きましたように、自分は自他共に認める(?)“三日坊主”ですけど、三日坊主は「何かを始めたり行動に移さなければできないこと」であって、三日坊主を恐れるあまりに、何もやろうとしなければ、三日坊主になることすらできません(笑)
だから、「三日坊主でもいい、とにかく始めることや行動に移すことが大事だ」ということを認識させられました。
三日坊主になってしまったら、また始めればいいのです(笑)

…というわけで、今日は自分が現在使っている教材をUPします。
今、一番集中して使っているのは次の本です。

『ハートで感じる英文法』大西泰斗/ポール・マクベイ著(NHK出版)

NHK3ヶ月トピック英会話のエキスを本にしたものです。放送されたのは1年ぐらい前ですけど、書店では今でも平積みになって売られていますので、ご存知の方も多いでしょう。
これはなかなかの逸品だと思います。大袈裟かもしれませんが、歴史に残る名著ではないかと思ってしまいます。
何が凄いかというと、従来の英文法解説書は、事細かに“分類”していくことに注力していましたが、これは“分類”ではなく“統合”していく文法書です。
今まで細かく分類していく英文法解説書をいくつか使ってはみたものの、殆ど頭に残りませんでしたが、この本を読むと「何故そのような用法・用例になるのか?」不思議なことに分かってきます。従来の文法をアップフレーミングしていく本ですね。従来の英文法の根底にある上位概念を理解すれば、細かく分類された用法の“こころ”や“気持ち”、それにニュアンスまでもが分かるようになってきます。
もっと早く、このような本に出会いたかったです。
英文法の捉え方を変えようとする本は他にもありますけど、“分類”の枠組みを変えているだけで、『ハートで感じる英文法』のようにアップフレーミングするものは無かったのではないでしょうか?
(もし他にもありましたら是非教えてくださいね)

…で、現在の状況は、この本に書かれている内容を自分なりに整理しているところです。進捗は………「始めています」という状況です(笑)

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2007年1月 1日 (月)

とにかく勉強しなくては…

新年を迎えた勢いでブログを立ち上げてしまいました。

目的は『英語の勉強の刺激として』です。

三日坊主になってしまうことはミエミエですけど…

もともとマメな方ではないので、日記にしても何にしても長続きしたためしがありません(笑)

尤もマメな人間でしたら、英語の勉強もコツコツしていて

今頃はそれなりに話せるようになっていたはずですよね(苦笑)

新年というキリの良さから頑張ってみることにします。

さて、いつまで続くでしょうか…

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